日本の731犯罪記念展示場に侵入

缺少文字資料:
外文博物館名稱、簡介(英日韓俄)、各項景點外文名稱

★★序厅之前

 観客の皆様こんにちは(お早うございます)、ようこそ七三一陳列館に見学にいらしゃってくださり、ありがとうございます。
 皆様が今、いらっしゃるのは新館です、2015年8月15日に正式にオープンしました。3階建ての建物です。建物の総面積は1万平方メートルあり、6つの展示場があります。

★★序厅

 皆様が今いらっしゃる所は本館の展示場です。壁面に記録している「非人道的な残虐行為」の文字は、英語、日本語、ロシア語、韓国語、モンゴル語で表示しています。日本の中国侵略期間、公然とジュネーヴ議定書に違反して、七三一部隊を主体とした組織的な細菌戦の体係を確立しました。極秘で、細菌兵器を開発しました。そして、人体実験をし、大規模な細菌戦を実施しました。中国の多くの人民の命を奪い、経済の損失をもたらしました。
 本展覧では、大量の証拠品、資料を使い、七三一部隊の反人類文明と反倫理の本質を証明して、戦争対しての反省を呼び起こします。

★★第一部分侵华日军细菌战──日本侵略扩张国策

「第一展厅路上」
 細菌兵器は生物兵器ともいって、それは化学兵器、核兵器と並んで三種類の大量殺人兵器です。

第一部分侵华日军细菌战
「日本侵略扩张国策」
 観客の皆様、日本がどうして細菌戦を実施したのか。歴史的背景は何でしょうか?
 日本は明治維新後、対外拡張の道を選びました。朝鮮を併合し、中国を侵攻し、アジアを支配する、世界制覇を計画しました。日本の国土面積は小さく、戦争に必要な資源が不足のため、高効率、低コストの武器を開発しなければなりませんでした。そのため、細菌兵器の開発と細菌戦の実施を行いました。
 1931年、日本は「満州事変」を起こし、中国東北を占領しました。そして盧溝橋事件を起こし、全面的な侵略戦争を始めました。このためにも細菌戦は有効だと考えたのです。

「マップ紹介」
これは満州国の全図です。

★★日本细菌战体系

 日本が細菌戦を実施したのは、個人の計画ではなく、一つ部隊の単独行為でもありません。計画的、組織的、大規模な国家犯罪です。この勅令、指示と命令を通じて日本の細菌戦という反人類犯罪を行ったのです。これらの文書は、日本の細菌戦の犯罪の証拠として証明できます。
 これは天皇の細菌部隊についての3通の勅令です。
 これは参謀本部の細菌戦についての6通の指示です。
 これは陸軍省が下す細菌戦についての2通の命令です。
 これは関東軍司令部の細菌戦についての14通の命令です。
 これは日本軍師団細菌戦についての2通の命令です。

★★日本细菌战部队的分布、非军事单位参与细菌研究和实验

「日本细菌战部队的分布」
 1936年、天皇の勅令によって、日本は中国東北でハルビン第七三一部隊と長春第一〇〇部隊に細菌戦部隊を組織しました。後に北京第一八五五部隊、南京第一六四四部隊、広州第八六〇四部隊とシンガポール第九四二〇部隊、細菌戦部隊を設立しました。また、各師団で58の防疫給水部隊を設立しました。
 そこで、東北、華北、華中、華南及び東南アジアの細菌戦部隊に付属して、各師団の防疫部隊と衛生部隊を作り巨大な細菌戦組織を作りました。
 これは日本軍の盧溝橋事件後に新設した防疫機関です。

「非军事单位参与细菌研究和实验」
 日本が中国を侵略中、非軍事医療機関も細菌戦の研究に参加しました。例えば:満州国大陸科学院は長春第一〇〇部隊にワクチンを供給して、細菌戦の研究に用いていました。満州国医科大学、日本東京帝国大学、京都帝国大学などは七三一部隊と協力して細菌研究や人体実験を行っていました。九州大学は米軍捕虜を使って生体解剖実験を行いました。

★★日本准备细菌战──第一组早期研究

 日本の細菌戦の研究は早くから行われています。1916年、日本陸軍軍医学校は細菌学教育の中で、細菌戦方法について教授しました。1918年、日本はロシアが細菌戦研究をしている情報を得た後、細菌兵器の開発を始めましたが、期限内に任務を完成しなかったので、担当者は「手抜きの仕事」、「国の財力を浪費した」などの罪名のもとで逮捕され裁判にかけられ40余名の科学者達が減給され他の仕事に左遷されました。その後、細菌の研究は一時中断しました。

★★第二组在日本建立研究基地

 1930年以降、石井四郎は日本軍内で積極的に細菌戦を推奨しており。当時軍内に影響がある軍事科学者小泉親彦の関心と賞賛を受け、1932年、小泉親彦の指導のもとで、東京陸軍軍医学院は細菌研究室を設立して、表向きには「防疫研究室」と称して、細菌兵器に対する研究を始めました。

★★第三组在中国哈尔滨和五常建立实验基地與石井四郎的等人到中国东北选址(一~六)

 1932年、日本は中国東北部を占領し、石井四郎の細菌戦研究のために広大な土地を提供しました。コレラ、チフス、炭疽などの各種伝染病菌の研究は病気にかかった人を研究する必要があります。石井四郎は上級機関に細菌研究所を中国東北地域に移転することを提案しました。その理由は三つあります。一、大量な生体実験材料を得やすい。二、細菌実験は大きな危険性があって、細菌感染が発生すれば、制御することができない。このようなリスクを現地に転嫁することができる。三、日本軍の対中、ソ戦争で細菌戦を実施する場合有利である。
「一、石井四郎らは中国東北へ場所を選択する」
 1932年8月、石井四郎一行は東北現地視察を終えた後、最後に細菌研究所をハルビンに設置することに決定しました。

「二、細菌研究基地を建立する」
 1933年、日本陸軍は、石井四郎がハルビンで細菌研究基地を創設することを承認しました。8月、ハルビン南岡区宣化街と文廟街の中間地帯で細菌研究所を創設して、「加茂部隊」、「石井部隊」と変名して、表向き「関東軍防疫班」と称しました。その付属細菌実験場は、ハルビンの南より約70キロの背蔭河鎮に設置されました。

「三、背蔭河細菌研究基地を建立する」
 1933年春、石井部隊は背蔭河鎮で労働者を強制収用し、1年間をかけて兵営を建設しました。中馬という大尉がこの「兵営」を管理するので、人々はこれを「中馬城」と呼びました。
 「中馬城」のいろいろな異常な事を人々は不思議に思いました。夜中に、「中馬城」から漏れてくるかすかな悲鳴をききました。夜、村人たちはハルビンの方向から来る大型自動車をよく見ました。「中馬城」の中の大きな煙突はたえず煙を吐いて、焦げ臭い匂いを周囲に漂わせていました。

「四、人体実験」
 「中馬城」には、いったいどんな秘密があったのでしょうか?
 1933年「中馬城」ができてから、石井部隊は大規模な人体実験を始めました。「中馬城」内の「東満大獄」の中にたくさんの「マルタ」を収容して、毎日細菌実験に使用し、足りなくなったら、又、マルタを補充しました。
 関東軍副参謀長遠藤三郎の日記によると、彼は背蔭河細菌実験場で視察中に、石井部隊の人体実験を目撃したことがあります。

「五、脱獄」
 石井部隊は人体実験中に、一つの脱走事件が起きました。
 王子揚は抗日戦士であり、ハルビンに来て日本人に捕まり、背蔭河実験場に収容されました。彼は日本軍が、ここで人体実験している情況を知りました。
 ある夜、王子揚は「中馬城」の停電の機会を利用して、仲間を誘い脱獄しました。刑務所の外は高圧電線で遮っています。王子揚は急いで皆を指揮し、人ばしごをかけて、壁を乗り越えました。王子揚と同時に入獄した李さんは先に仲間を助け。最後に彼一人が殘り、結局、体力がなくなり犠牲となりました。
 李さんは自分が壁を乗り越えることをせず、他の人を助けて、自分が犠牲になること選びました。

★★「六、背荫河细菌实验基地暴露」★★
 脱獄事件が起きた後、石井四郎は「中馬城」の秘密が漏れたのではないかと不安になりました。

★★第四组细菌研究基地移至平房

 日本陸軍本部の承認を経て、石井四郎は細菌実験基地をハルビンの平房地区に移設することを決定しました。1935年初め、人を派遣して平房地区に土地を確保し計測しました。1936年から建築を始め、1938年主要建築は完成しました。1938年6月30日、七三一部隊の秘密を守るために、関東軍司令部は第1539号命令を出し、平房地区は120平方キロメートルを特別軍事区域と選定しました。七三一部隊は平房地区に集まり、この日から、平房地区は悪魔の住む地域となりました。
 これは当時の日本関東軍司令部の公布した1539号命令書です。
 これは居住証明書です。七三一部隊の「特別軍事区」では、満16歳以上の住民は、皆このような「居住証明書」を持たされました。スパイが「特別軍事区」に入ることを防ぐためです、この証明書を持たない人が「特区」に入ると「政治容疑者」として逮捕されました。

箱型のベッド:労工を罰する刑具です。
労役腕章:労工は七三一部隊で異なる職種の労働に従事する場合には、その様式の腕章を付けます。

★★第二部分七三一部队——日本细菌战的大本营第一单元

 七三一部隊と言えばまず石井四郎という人物を語らなければなりません。石井四郎は1892年日本千葉県の地主の四男としてうまれたので「四郎」と名づけられました。京都帝国大学医学部を卒業し、細菌戦の計画を立て、細菌部隊を創設しました。1942年、軍事費の汚職のために、解任されました。1945年戦局を立て直すため再度七三一部隊長として復帰しました。彼は敗戦前に日本に逃げ帰ってしまいました。

★★第一组鼓吹细菌战-2

 1928年から1930年まで、石井四郎は欧米の20余りの各国へ細菌戦の情報を収集に行きました。帰国後、積極的に細菌戦を主張しました、内容は主に以下通りでした:
 一、海外視察の期間に各大国が皆細菌戦を研究していることを知りました。もし日本が積極的に細菌戦の準備しなければ、将来、戦争が起きた時、細菌戦の準備を怠っていれば大変なことになる
 二、日本は金属鉱物資源やその他の武器を製造する必要な原料が少ない、したがって、新式兵器を開発しなくてならない、細菌兵器はその中の一つである。
 三、鋼鉄製の砲弾の殺傷力は有限であるが、細菌兵器の殺害範囲は非常に大きい。感染を広げで長時間殺傷力を保持することができる、戦略意義から見れば細菌兵器はきわめて有効な攻撃兵器である。

★★第二组指挥细菌战

 彼の思想は、日本軍部上層の支持を得、石井四郎は細菌兵器を開発し、実施する研究を始めました。
 この石井四郎の履歴表から、彼の人生の軌跡をはっきり見ることができます。

★★第二单元七三一部队本部

 この場所は「魔窟」と言われた七三一部隊本部の展示です。本部は、ハルビンの各地に設置された各部隊を指揮していました。

★★第一组基础设施

 七三一部隊の兵営は1940年8月に全施設を完成しました、主要区域の敷地面積は6 . 1 k㎡あり、敷地内に80数棟の建築物があります。

「特殊に設計した営区」
 七三一部隊の施設は、関東軍指定の設計会社と工事会社が共同で完成したのです、ドイツの極秘研究所の設計を使用し、「特別設計の最も贅沢な兵営」と呼ばれ、これは当時の日本軍の設計では最高水準です。

★★第一组基础设施(一~三)

(一)暖房、給湯、送電システムの完備。
 ボイラー室
 この大型建築物は動力班のボイラー室です、三階建ての鉄筋コンクリート造りで、給水、暖房、電力供給を一ヶ所に集めた最重要施設です。

(二)建築デザインの特徴
 ロ号棟
 ロ号棟は敷地面積15000㎡、鉄筋コンクリート造りです。3階建てですが、天井が高く五階建てに相当します。七三一本部内の最大建築物です。
 特設監獄
 ロ号棟に囲まれた中間の建物はマルタを収容する特別監獄であり、七、八棟と呼ばれました。ドイツ式設計を採用していました。特設監獄は二階建てで、ロ号棟の外からは特設監獄がまったく見えません。刑務所内にガスパイプが引いてあって、事件が発生すると、即刻有毒ガスを注入してマルタを殺すことができました。また、特設監獄は各実験室と直接につながっていたので、生体実験を行う場合便利でした。

(三)交通が便利である
 鉄道専用線
 七三一部隊は部隊専用の鉄道と専用の飛行場がありました。専用鉄道は全長は4キロあります。南は平房駅に接続して、北は第一倉庫につながっていました。最初は建築材料を運送していましたが、部隊完成後も生活物資や細菌の研究に必要な器材を輸送し、一部の「マルタ」は専用鉄道で七三一部隊まで運ばれました。

★★第一组基础设施(四~五)

(四)施設の完備生活区
 七三一部隊は3000人の居住区と生活区が建設されています。当時の名前は「東郷村」と呼ばれ、その中の施設が整っていました。運動場、プールや神社などもありました。この6.1平方キロメートルの区域は当時の日本人から「小さなハルビン、大きな七三一」と言われていました。

(五)四条の防御線
 関東軍と七三一部隊はこの細菌戦基地を最重要視し、陸空から防御網を張って防衛しておりました。

★★第二组组织机构

一、組織機構は秘密です。
 七三一部隊の組織は細分化されており、本部→細菌研究部、細菌実験部等8部が設置されていました。他に4組織を設置しており、研究所と三ヶ所の野外実験場ありました。

二、各部の分工
 これは七三一部隊本部機構の配置図です。

★★第三组人员配置

 七三一部隊は将校・下士官、兵士や軍属が在籍していました。4部門から構成されています。1945年、七三一部隊は、将官3人、佐官44人、尉官102人とともに、下士官、兵士や軍属、合計3540人を配置しています。約50人が博士号を持ち、彼らは当時の日本ウイルス学、生物学などの分野の専門家でした。高等官は100人近くいました。
 高等官は、天皇自らが承認し任命した、文官と武官です。この写真は七三一部隊の高等官の写真です。
 軍属とは、軍隊の中で仕事をする一般人のことです。
 これは七三一部隊第二部隊長北野政次です。彼は東京帝国大学を卒業しました。展示パネルは北野政次の東郷神社前での写真です。その下に陳列されているのは北野政次の昇進や就職の関連文書です。
 七三一部隊では当時世界でトップクラスの医学専門家を集めており、彼らの本来の職責は人を救い、人類に貢献することでした。彼らは医学研究の本筋からはずれ、生きた人間を実験材料とし、その研究成果を自己の学術結果として発表しました。
 これは日本医学会の集合写真です、前列左から5人目は石井四郎です。又、右から4人目が北野政次です。

★★第四组教育培训

一、細菌戦の養成訓練班
 七三一部隊には訓練教育部があり、本部、分遣隊や関係者に細菌戦の教育訓練を行いました。

二、少年隊員を募集する
 石井四郎は故郷で14歳から17歳の少年を募集し、七三一部隊が細菌戦を永続的に維持するための予備力として育成しました。共通点は、家が貧しく、成績が優秀であることです。
 これは、少年隊員と七三一部隊の教育訓練の写真です。

★★第五组待遇保障

 1940年以降、七三一部隊は毎年軍事予算が年間1000万円以上もあり、また50~100万円程の特別費用がありました。部隊の中で生活施設はすべで揃っていました。

★★第六组保密措施

 七三一部隊の秘密工作は厳格で、お互いの仕事は漏らすことなく、部隊外との連絡も禁じられ、仕事と生活の区別もなく七三一部隊員だと知られることを隠しました。
 写真は石井四郎の運転手越定男です。彼は毎回平房からハルビン市街地に行く時には、中国人の服装に着替えました。
 この建物は、ハルビン市教化街に位置する白樺寮であり、七三一部隊隊員がハルビン市街地に入る中継地点です。
 この建物は、ハルビン市教化街にある白樺寮です、七三一部隊隊員がハルビン市街地に入る活動拠点です。

★★第三单元七三一部队支队

 1940年12月、ソ連との戦に適応するために、関東軍司令官は398号命令を下しました。これは当時の命令書です。中国とソ連の国境地域で海林、林口、孫呉とハイラルで分遣隊を設立して、1938年の接収した大連衛生研究所に加えて、七三一部隊は計5つの支隊機構を持ちました。図には、いくつかの分遣隊の位置が書かれています。
 これは1943年12月七三一部隊の各部長、支隊長と大連衛生研究所所長の集合写真です

★★第三部分人体实验

 観客の皆様、これからご紹介するのは七三一部隊の最も重要な犯罪——人体実験です。人体実験は七三一部隊の最も殘酷で許しがたい罪です。更に七三一部隊の秘密中の秘密です。

★★第一单元细菌研究──第一组细菌研究种类

 人体実験を紹介する前にまず細菌研究を知ってください。七三一部隊は細菌戦を実行するための細菌研究と実験を行いました。
 これは七三一部隊の細菌実験の一覧表と主要な菌の種類です。当時七三一部隊の主要な研究の細菌はペスト菌、炭疽菌、チフス菌、パラチフス菌やコレラ菌などの病原菌です。細菌培養方法は複雑で、一連の育成の過程を経て、24~48時間後、細菌を採集し人体で実験しました。
 七三一部隊は細菌研究を行った後、実験報告書を作成します。次の書類は七三一部隊のペスト菌人体実験報告書の一部分です。
 ここに展示してあるのは七三一部隊元隊員小関重雄の細菌培養についての証言。竹内豊の育成ペスト菌とチフス菌育成についての証言。山内豊纪のチフスワクチンの効果に対する研究の証言です。

★★鼠疫跳蚤研究

 当時七三一部隊は「ネズミ部隊」とも呼ばれいて、大量のネズミを飼育していました。その目的はノミを繁殖するためです。ノミはペストを伝染させる役目をします。ここは七三一部隊のネズミ等の小動物を飼育する地下飼育室とジリス飼育室です。
 これは七三一部隊のペストノミの研究のグラフです。

★★动植物细菌研究

 七三一部隊は各種の細菌を研究し、生産するために、大量の牛、馬、羊、サル、ラクダなど動物を飼育していました。
 この写真は動物クラスの班長石井三男です。彼は石井四郎の3番目の兄です。日本獣医大学を卒業し、高等官の待遇を受けていました。1945年8月動物飼育室を焼却し、家族と一緒に、一般人より先に日本に逃げ帰りました。
 これは七三一部隊の植物ウイルス研究班班長八木沢行正です。八木沢班は枯葉剤研究を主に行いました。

★★第二单元人体细菌实验──第一组人体细菌效力实验

 七三一部隊の最も殘忍非道の犯行は人体実験です。

「第一组人体细菌效力实验」
 細菌戦の目的は人間ですから、生体で実験すれば、実験の正確度をより強く上げることができます。人体の細菌実験は細菌の効力実験と伝染経路の実験に分けられます。
 七三一部隊の細菌効力実験の目的は効力の強い有毒細菌を作り出すことです。そのための実験を行ってもっとも強い毒性の細菌を作り出そうと研究しました。
 ここに展示してあるのは人体の細菌実験方法と種類です。

★★第二组细菌传染途径实验-1

 七三一部隊は毒性の強い細菌を作り出しました。そして次にはどのようにして人に感染させるか、感染経路の実験を行いました。
 元七三一部隊員の上田弥太郎の証言によると、七三一部隊の細菌伝染実験は主に三つの方法があります:一つは筋肉注射法です。2番目は口から菌を入れる方法です。3番目は皮下注入法です。人間の皮膚を切り離して、細菌を入れてから、縫合します。その結果、筋肉注射法の効果が最も有効でした。

★★第二组细菌传染途径实验-2

 生体解剖は、実験の正確さを確認することができました。また人が細菌に感染した後の内臓変化を観察することを最も正確に知ることができました。解剖の対象は妊婦や子供も含まれました。
 病理研究班長石川大刀雄丸の証言です。当時彼は何度も生体解剖実験を行っていました。
 胡桃沢正邦は七三一部隊の人体解剖技師です。彼の証言によると:彼は1人の妊娠中の中国人の女性を解剖しました。彼女は子供を助けてほしいと訴えましたが、彼は生体解剖実験を実行しました。

★★第二组细菌传染途径实验-3

 日本の有名な作家森村誠一氏は多くの七三一部隊の元隊員を探して、「悪魔の飽食」を編纂しました。本には次のような内容も書かれていました。1943年、健康な子供の内臓を標本と作るために、長春の街頭から十三、四歳の男の子を捕まえてきました。少年の内臓はすべてのを取り出され、標本とされました。残った死体は焼却炉で焼かれました。
 七三一部隊少年隊員の証言によれば:七三一の解剖室では、1名のペスト菌を感染させられた中国人は解剖されました。彼は死ぬ前に、「鬼子」と怒って叫び死にました。死体は細かく切られ、標本とされました。

★★第二组细菌传染途径实验-4

 七三一部隊は、大量の人体実験と生体解剖を行っていました。このために三基の焼却炉を作りました。1基は、ロ号棟の北西角にあり、主に実験に使ったの死体を焼却していました。また別の二基は、動物の死体や七三一部隊員の死体を焼却するためのものでした。

★★第三单元人体野外实验──第一组航空班和气象班、第二组野外实验场

 七三一部隊の行っていた人体実験と細菌戦は、野外実験によって確認されました。

「第一组航空班和气象班」
 野外実験の最も主要な任務は、飛行機で細菌を撒くことです。
 この写真は、七三一部隊航空班の使用していた飛行機です。
 七三一部隊の飛行機の内部設備は改造されて、投下器、拡散機械などをつけて、細菌戦や細菌実験に用いました。

「第二组野外实验场-1」
 七三一部隊は野外作戦の実験をするために、安達、城子溝、陶赖昭に3ケ所の野外実験場が建設されました。他にも数ケ所の臨時野外実験場があります。
 ここに展示してあるのは、安達特別実験場と城子溝野外実験場です。
毎回の実験は、十数人あるいは数十人のマルタを使いました。彼らに日本の軍服を着せて、固定された十字架の上に縛りました。マルタがすぐに死なない様に、実験前被験者の頭に特製の鉄兜を載せて、鉄板で胴体を覆って、手足だけを出しました。そして飛行機で被験者の上から細菌爆弾を落しました。爆弾は地上より100-200メートルの所で爆発して、破片は被験者の露出部分に当てて、細菌に感染させました。実験が終わった後、マルタを消毒処理を経て、平房本部に引き戻して、「効果観察」を行っていました。

★★第二组野外实验场-2

 運転手越定男は、何度も車で安達野外実験場まで行ったことがあります。彼の証言によって:1943年の冬、七三一部隊は安達特別実験場で1回のペスト菌爆弾の効能実験を行いました。爆弾を投入する前に、あるマルタは、自分のロープを解きました。週囲の30数人をすべて逃がしました。七三一隊員は2キロ離れた所で望遠鏡で見ていて、車でこの30数人を全員ひき殺しました。
 自分のロープを解いた人は独りで逃げることができたのに、全員のロープを解いて、同生共死不屈の精神を持って、日本の人体実験に対して戦いました。

★★第四单元其它人体实验──第一组冻伤实验

 凍傷実験も七三一部隊の重要な実験の一つです。その目的は日本軍の寒冷地域で作戦する時の問題を解決するために行いました。この実験は日本軍医吉村寿人が中心となって、行いました。凍傷実験の効率を速めるために、凍傷実験室を作りました。このため、いつでも凍傷実験をすることができるようになりました。繰り返しの実験によって、凍傷治療の最も良い方法は37℃の温水に浸すことを突き止めました。

★★第二组毒气实验-1

 七三一部隊は巨大なガス生産施設を持って、毒ガス生産室と地下毒ガス貯蔵室を作りました。専用の毒ガス実験室が建ててあって、飛行場の東北角にありました。毒ガス実験室には密封された部屋があり、マルタを実験室に入れて何種類もの毒ガス実験を行って、最後にはマルタを毒で殺しました。

★★第二组毒气实验-2

 七三一部隊の実験種類は多く、百種に達して、上記のさまざまな実験のほか、やけど実験、銃による貫通実験、逆さ吊り実験、人と馬の血交換の実験などを含みました。

★★第五单元特别移送

 人体実験は、大量の生きている人を必要とします。これらの人体実験に使う人は、軍、警察、憲兵、特務機関が特別な手段を通して七三一部隊まで送っていました、特別移送は日本語で「特移扱い」と言って、各地の軍、警察、憲兵、特務機関などと七三一部隊内部の使用する固有名詞となった。

★★第一组参与机构

 これは特別移送に関係した組織表です、表のように731部隊の実施していた人体実験は軍、警察、憲兵、特務機関が関係していました。

★★第二组实施标准

 1938年1月26日と1943年3月12日、日本の関東軍憲兵隊司令部は第58号及び第120号命令を下して、規定した特別移送の実施基準を決めました。この資料は、憲兵隊が関係していた証拠です。

★★第三组基本程序

 特移扱い計画表、特移扱い基準のファイルおよび戦犯供述の資料から、私たちは特移扱いの各部分が非常に緻密であったと確認できます。

★★第四组特点和数量

 当館の研究学者は1997年に黒龍江省档案館で特別移送資料を発見して、これを通して被害者リストを作りました。その数は少なくとも1549人に達しました。その中のほとんどが中国人であり、またソ連人、モンゴル人と朝鮮人も含まれていました、彼らは多くが反満抗日活動を行なったり、あるいは反帝国主義活動を行っていた情報組織の人達です。ここで見るのは特別移送被害者の写真及び日本語の資料です。

★★第五组典型案例

 これらのマルタたちは東北各地で反日活動を行った人々です。また、戦争捕虜も含まれ、その中にはノモンハン事件で捕虜にされたソ連軍もおりました。

★★第六组特设监狱

 これらの特別移送された人々は、ロ号棟内の特殊刑務所にとらわれました。西側は7室あり、主に男性を監禁、東側は8室あり、主に女性を監禁しました。1階は集団の監房で、二階は独房でした。

★★第四部分研制细菌武器

 観客の皆様、この部分は七三一部隊細菌兵器の開発を主に展示しています。
 七三一部隊は膨大な研究基地を建設して、細菌兵器を開発しました。
 七三一部隊は殘忍非道な人体実験を行い、細菌兵器を開発しました。
 細菌兵器を製造することは、細菌伝染の特性を利用するです。この細菌兵器を使って、実戦で如何に大きな効果があがるかを研究することが目的です。

★★第四部分研制细菌武器-1

 七三一部隊は多種の細菌爆弾を開発しました。鉄鋼製とガラス製の細菌爆弾がありました。しかし効果がよくないので、最終的に陶器製細菌爆弾を作りました。改良実験を経て、50型宇治式爆弾が開発されました。通称「石井式」細菌爆弾と言われるものです。
 これは国内唯一の当時の細菌爆弾です。
 そのほか、石井四郎は多くの細菌散布器を開発しました。

★★第四部分研制细菌武器-2

 日本の登戸研究所が開発した巨大な風船爆弾は本当にアメリカ本土まで飛び、小さな山火事をおこしました。

★★第四部分研制细菌武器-3與第一组生产细菌战剂

 七三一部隊が生産した細菌兵器はペスト菌を主とする細菌や、ペストノミを入れた陶器爆弾でした。
 細菌生産は、製造過程が復雑です。この表で見るように石井式細菌培養器を使って作りました、これは第四部が担当しています。
 これは石井四郎が研究・開発した細菌培養器で、アメリカ公文書に記載してあります。

★★第二组培殖鼠疫跳蚤

 ペストノミを繁殖する基本的な流れはネズミを捕えて、養殖し、ノミを繁殖させる三つの過程です。
 これは七三一部隊が各地に鼠類を請求するリストです。
 これは日本軍の細菌部隊隊員がネズミを持った3枚の写真です。
 これは七三一部隊労役陳方東が述べた石井部隊で動物を飼育した様子を述べたビデオです。

★★第三组生产陶瓷炸弹

 陶器爆弾生産は、爆弾の外殻生産と火薬装填の二つの部分に分けられており、陶器製弾体は七三一部隊第三部が担当し、ハルビン市内に陶器工場が設置してあり、火薬装填は平房本部で、第二部の山口組が担当しました。
 これは労役喬世興の山口班の陶器細菌弾と兵器班についての証言です。

★★第四组细菌武器产量

 七三一の元隊員の法廷で供述によると:七三一部隊の細菌生産量は極めて多く、細菌液の毎月の生産量はペスト菌が約300キロ、炭そ菌は約600キロで、チフス菌は約900キロです、コレラ、赤痢菌などパラチフスも各1000キロ生産されました。

★★第五部分实施细菌战

 すでに私たちは七三一部隊の細菌兵器研究と製造の過程を見てきました。これらは細菌戦を実行するためのものです。1939年、七三一部隊はノモンハン戦役で初めて細菌兵器を使いました、その後何度も浙贛沿線、湘、雲南などで細菌戦を実施しました。
 これらのファイルは、アメリカ国立公文書記録管理局、国会図書館で保管する日本の細菌戦の資料です。その中の『トーマス・イングリス報告」は日本の細菌戦についての総括的な報告です。ファイルの詳細記録によると、細菌兵器の開発が、細菌戦が最終目標であることを断定することができます。

★★第一单元诺门罕细菌战──第一组出兵诺门罕

 1939年、日本軍とソ連軍はモンゴルの国境で大規模な戦闘を行いました。「ノモンハン戦役」です。双方は大量兵力を投入しました。この戦役で七三一部隊は細菌戦を行いました。しかし最終的には日本軍の惨敗で終りました。

「第一组出兵诺门罕」
 この地図は、七三一部隊がノモンハン戦場へ赴いた地図です。このように、七三一部隊は二つの経路に分かれて戦場に入ったのです。

★★第一组出兵诺门罕-2

 関東軍司令部の命令によって、七三一部隊は参戦の案を立案しました:1、榴弾砲で発射する。2、飛行機で爆弾を落とす。3、水源地へ細菌を撒くの三つの計画です。最終的にはハルハ川に細菌を撒くことを決定しました。

 また、石井四郎は細菌生産隊を結成して、大量に細菌を生産しました。関東軍司令部の命令を受け、七三一部隊はノモンハンの戦場へ赴きました。石井四郎みずからが陣頭に立って作戦を指揮しました。
 これらの資料は七三一元隊員田村良雄が大量に細菌を生産していたことについての調書と供述です。
 この写真は6月21日、瀬戸軍医が指揮した瀬戸隊が、ハルビン駅で山本参謀の軍服検査を受けた様子です。
 これは1939年6月26日に七三一部隊の自動車がアル山からモンハン戦場へ器材を運送する情景です。

 これは1939年7月12日、ノモンハン戦場738高地付近の七三一部隊です。丘の斜面の下でヘルメットをかぶっていない人が石井四郎です。

 この資料は関東軍作戦についての2つの命令です。

 この人は、七三一部隊決死隊隊長碇常重です。

★★第二组投撒细菌

 今見ているのは、決死隊がハルハ川に細菌を散布している様子です。
 7月12日、決死隊隊員は、身分を隠すために、すべて肩章や帽章を外して、川を逆登って、細菌液を川の中に22.5キロを撒きました。

 七三一部隊撮影班は、これらの細菌戦をすべて写真や映画に記録しました。これは遠藤三郎のノモンハン細菌戦の映画を見たという日記です。
 このビデオは、元隊員がノモンハン作戦中にハルハ川に細菌を投げ撒いたことを証言しています。

★★第二组投撒细菌-2

 これは碇常重が石井四郎に血書を提出した情景です。

★★第三组防疫给水

 防疫給水部は細菌戦を実施する重要な構成部分です。七三一部隊の最終的な任務は細菌戦を実施することです。日本軍が細菌戦を行うならば、まず自分が感染しないことでです。七三一部隊はノモンハン戦場に、細菌兵器や防疫給水設備を大量に運び込みました。そして戦場で大規模な野外浄水作業場を設立しました。細菌戦のために用意したのです。
 これらの写真は七三一部隊が水源を探査し、井戸を掘り、水をろ過して、給水している様子です。
 このバケツは2014年ノモンハン戦場の砂丘の中から掘り出したものです。
 これは弾痕のある防疫給水用バケツと石井式濾水車です。

★★第四组细菌战结局

 当時ソ連・モンゴル連合軍には給水システムがあったので、細菌の感染を受けませんでした。逆に日本軍の多くの兵士は飲用水の供給が遅れたために、川水を飲み、1400余人が細菌に感染しました。七三一部隊は今回の作戦でも40人以上が戦死しました。
 ノモンハン戦争終了後、関東軍司令官及び多数の将校は更迭されました。しかし石井四郎と七三一部隊は表彰されました。ノモンハン細菌戦はあまり効果はありませんでしたが、日本軍の大本営は細菌兵器が大変効果的だと判断しました。ノモンハン戦争後の翌年の1940年に日本軍は七三一部隊を2000人余りまで拡大して、軍事費を当時の金で1000万円余りまで増加しました。それと同時に4つの分遣隊が設立されました。

★★第二单元宁波细菌战

 1940年以降、日本は中国南方の寧波、衢州、常徳などで細菌戦を実施することを決定しました。
 七三一部隊は命令を受けた後、細菌生産隊を編成して、昼夜の別なく細菌を生産しました。そして大量の細菌を華中地域に送りました。そして、南京の一六四四部隊の協力のもとで細菌戦を実施しました。
 『井本日記』では1940年浙江省の細菌戦の命令・準備・目標・戦い方と実施過程などについて、詳しく記録されています。
 始めの頃の細菌戦の規模はそれ程大きくなく、七三一部隊は秘密の部隊を派遣して寧波地域の住民区、水源地にペスト菌、腸チフス菌、炭疽菌などを撒きました。
 その後規模を拡大して、1940年10月27日、石井四郎自ら指揮し、一六四四部隊と合同して、寧波市の上空から大量の細菌類を撒いて、寧波地区に疫病を発生させました。この時、七三一部隊撮影班はこの細菌戦を映画で記録し、細菌戦の教材として各地の養成訓練班で上映しました。

★★第三单元衢州细菌战

 日本軍は衢州を重点攻撃目標として、1940年と1942年に2回の大規模な細菌戦を実施しました。第1回目はペスト菌に感染したノミなどを撒いて、衢州地域にペストを流行させました。第2回目は中国軍の駐屯地に細菌を撒いて、多くの中国の兵隊に感染させました。

★★第四单元常德细菌战

 1941年11月、七三一部隊遠征隊は増田美保が操縦する飛行機で南昌から、常徳上空に行き、ペスト菌を帯びたノミ、布、食料品などを撒きました。この細菌戦により常徳に大規模なペスト流行が起きて、多くの感染者が死亡しました。

★★第六部分毁证和审判──第一单元毁灭罪证與第一组焚毁资料-1

 次の展示は最後の部分です、紹介するのは七三一部隊の滅亡、証拠の隠滅、敗走、そして戦後の関連問題です。
 1945年8月9日、ソ連軍は関東軍に全面攻撃を開始しました。日本軍の敗戦はもはや確定的です。七三一部隊の秘密を守るために、関東軍司令部は七三一部隊の証拠隠滅と撤退の命令出しました。

★★第一组焚毁资料-2

 8月10日夜、七三一部隊は緊急会議を開き、撤退命令を下しました。この時三つの特別命令が出されました。
1、資料を焼く。
2、施設を爆破する。
3、捕らえているマルタを殺し、死体を処理する。
 1945年8月10日から、七三一部隊は厳戒態勢を取り、証拠隠滅を行いました。大量の実験の資料や各種機器がボイラー内に投げ込まれ焼却されました。
 これは廃墟の中で発見された、田中技師の写真が載っている新聞の断片です。これは七三一部隊罪証破壊の証拠になります。

★★第二组毒杀“马路大”

 七三一部隊は資料を焼却するとともに、ロ号棟に収監した400名以上のマルタを毒ガスで殺して焼却しました。しかしあまりにも多かったため一度に焼くことができず、死体を松花江に捨てました。

★★第三组炸毁设施

 8月13~14日、七三一部隊はロ号棟の中の特設監獄などの主要建築物を爆破しました。ロ号棟と特設監獄は特殊鋼材と厚さ約50センチの鉄筋コンクリートで建てられており、完全に爆破できませんでした。最後には工兵隊により大量の爆薬を使い完全に破壊しました。

★★第二单元七三一部队溃逃──第一组石井训令、第二组溃逃回国

「第一组石井训令」
 石井四郎は撤退するとき、七三一隊員に対して口封じを命令しました。
1 .七三一部隊の身分を明かすことを許さない。
2 .すべての公職に就いてはいけない。
3 .部隊メンバーの相互の連絡を厳禁する。
すべての隊員は、七三一部隊の秘密は死んでも話してはならない。

「第二组溃逃回国」
 七三一部隊の全員の撤退を保証するために、関東軍は十数輌の専用列車を特別に許可し、この列車は優先的に通過できることを保証しました。8月11日、七三一隊員は特別列車に乗ってハルビンから出発し、通化、丹東、釜山を経て、日本に帰還しました。8月13日、石井四郎などのトップは重要資料を携帯して飛行機で日本に帰国しました。七三一部隊は関東軍の中でただ一つ部隊全員撤退しました。

★★第三单元日美交易──第一组美国秘密调查

 七三一隊員は偽名を使い、戦争裁判を免れる事を図りました。石井四郎は自分のために偽の葬式を行いました。アメリカは七三一部隊の研究成果を獲得するために、多くの人を派遣して日本の細菌戦の秘密を調べ、石井四郎、北野政次など少なくとも25名の七三一隊員と秘密に接触し尋問を行いました。最終的にアメリカは細菌実験や細菌戦の関係資料を得ました。2001年、2007年アメリカ国立公文書記録管理局は部分的に10万ページの日本の中国侵略の罪の資料を公開しました。その中の三千ページは七三一部隊が人体実験を行った報告書です。この資料は人体に細菌が感染したことについての報告書です。これらの資料は七三一部隊が中国で人体実験や細菌戦を行っていた戦争犯罪を改めて証明しました。

★★第二组美国庇护细菌战犯

 これらの貴重な資料を得た後、アメリカ当局はアメリカ安全保障の立場から石井四郎とその部下の細菌戦犯の罪を隠し、彼らのすべて戦争裁判を免除しました。

★★第四单元细菌战犯审判──第一组伯力审判、第二组沈阳审判

 日本軍は中国侵略戦争の中で、細菌兵器を研究開発して使用しました。ソ連と中国は相前後してボリ(ハバロフスク)、瀋陽などで一部の日本細菌戦犯を公開裁判しました。

「第一组伯力审判」
 1949年末、ソ連は12名の七三一部隊の関係者をボリ(ハバロフスク)軍事法廷に提訴しました。裁判で、山田乙三など12人は懲役刑を宣告されました。

「第二组沈阳审判」
 1956年に瀋陽で28人の日本人戦犯の公開裁判を行いました。その中に七三一部隊の重要なメンバー、林口第一六二分遣隊隊長榊原秀夫がおり。彼は13年の懲役刑を宣告されました。

★★第五单元细菌战贻害──第二组精神伤害

 七三一部隊を主体とする支那派遣軍細菌戦部隊は侵略中、我が国民に重大な被害を、後世までもたらせました。特別移送された被害者の遺族には精神的・心理的・経済的に多大な苦痛を与えました。

「第二组精神伤害」
「マルタ」遺族の証言とビデオです。親族には七三一部隊に送られたが生死もわかりませんでした。研究者が資料を発見し、その真実が白日の元にさらされました。その資料により殺害されたことを知ることとなりました。七三一の反人道主義の人体実験は残された被害者遺族に深刻な経済的・精神的苦痛を与えました。

★★第一组身心痛苦

 上の写真は、炭疽菌感染者の化膿状態です。多くの命を奪い、運良く生存している人達も完治することもなく、一生化膿に苦しめられます、多くの被害者の一部の人達です。

★★第六单元忏悔与谢罪──第一组加害者的忏悔、第二组加害者的谢罪

「第一组加害者的忏悔」
 七三一部隊の隊員はかつての人体実験や細菌戦の実施者であり証人です、長年の逃避と沈黙の後、一部の良識ある人は自分の経験を語り、加害者としての証言と懺悔は歴史の真実を蘇らせて、七三一部隊の罪証を証言しました。
 元隊員石橋直方は刑務所の管理を担当し、生体解剖を見ており、寧波細菌戦にも参加しました。長年の沈黙の後、七三一部隊の犯行を証言しました。1987年6月、彼は陳列館を訪問し、七三一部隊ロ号棟の構造図を描きました。また、謝罪書を提出しました。
 胡桃沢正邦は七三一部隊の人体解剖技師で、自らが多くの丸太を解剖しました。彼は証拠品として、当時使用した手術の器具を提供しました。ここに展示してあります。
 越定男は石井四郎の運転手でした。彼の証言によって:七三一部隊はほとんど毎日吉林街連絡所から「丸太」を輸送していました。各車両の「マルタ護送車」は世間の注目を避けるため10種類の許可証を作り、行き先を変更しておりました。越定男が描いた「マルタ護送車」の図面です。
 七三一部隊は敗走する時は殺害した「丸太」の死体を松花江に捨てました。鈴木進は輸送班隊員として輸送の命令を受けました、1985年、鈴木進は当時死体を投げ込んだ場所を訪れて謝罪しました。
 この展示パネル上の写真は航空班隊員沖島袈裟春ですこれは彼が描いた飛行機に細菌を積み込む場面です。
 七三一部隊が日本に逃げ帰った後、石井四郎は「房友会」を組織しました。その目的は、各隊員に七三一部隊の秘密を厳守させることです。多くの隊員たちは石井四郎の命令を受け、密かに隠れ住みました。当時の昆虫班隊員神谷実もその他の大多数の隊員のように、沈黙を守り半生を過ごしました。しかし彼は最期に七三一部队の真実を証言しました。これを彼の息子神谷明が公表しました、これは神谷実が七三一部隊にいた時の写真です。

「第二组加害者的谢罪」
 一部の細菌戦に参加した元隊員は七三一部隊が細菌兵器の開発、人体実験と憲兵隊が実施した犯行を証言したほか、中国人民とマルタ遺族に謝罪を表明しました。
 これは数人の元七三一部隊隊員が中国人民に謝罪を表した写真です。
 これは田村良雄、別名は篠塚良雄です。七三一部隊少年班隊員であり、人体解剖を行いました。細菌生産に従事してノモンハン戦役にも参加しました。彼は七三一部隊の罪を証言しました。何度も七三一遺跡現場を訪れて確認し、中国人民に謝罪をしました。
 これは七三一部隊航空班隊員松本正一です、何度もアンダー特別場の人体実験に参加しました。飛行機での南方細菌戦に参加し、細菌を撒きました。彼は何回も中国人民に謝罪をしました。
 1943年10月に、憲兵三尾豊は大連で国際情報組織のメンバー王耀軒、王東昇、李忠善、沈德龍を七三一部隊に移送しました、四人は後にマルタとして殺害されました。戦後、彼は王耀軒の息子王亦兵に謝罪をしました。
 1995年三尾豊はハルビンで王耀軒の息子、王亦兵と逢い「私は大連憲兵隊にいた時、天津であなたのお父さんといとこを逮捕しました。このことによりお二人と家族の方々に大きな災難をもたらしました。私は罪を認め、あなた方に心から謝罪いたします。私はあなたのお父さんを拷問して調べました。そして私は彼らを731部隊に送りました。私の罪は石井四郎と同じように重い。私は再びあなたたち、中国の被害者の家族の方々に謝罪します。私は一生謝罪し続けます。私は日本国内で中国侵略の事実を訴え続けます。そして王亦兵さんの裁判に証人として証言します」その後三尾豊は王亦兵の裁判で証言しました。

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